博士論文の要旨

専 攻 横浜国立大学大学院
国際社会科学研究科 博士課程後期
企業システム専攻
氏 名 前 田 公 彦

論文の題名
 
知的無形資産の価値評価ならびにITの価値創造・価値喪失に関する研究

1. 研究目的
今日のわが国において、ITや知的財産を前面に押し立てて国際的競争力を強化することは、21世紀のグローバル経済社会における最重要な国家戦略となっている。これからの知識創造時代においては、知的財産こそが企業価値の源泉であり、国際競争市場において絶対的な競争優位を獲得するための戦略的基盤として位置づけられている。
21世紀においては、経済のソフト化、グローバル化、IT化などの急速な進展に伴い、企業に収益をもたらす源泉は、従来の有形資産から知的資本に代表される無形資産に大きくシフトしている。知的資本は、会計上、「物質的な実体を持たない非貨幣的な無形資産」として捉えられるが、従来の会計の枠組みの中では、AAAの報告書による会計情報の要件としての「目的適合性」、「検証可能性」、「不偏性」、「量的表現可能性」などの資産認識の要件を満たさないことから、会計上は「隠れた資産」としてオフ・バランスになっている。
知的資産に代表される無形資産(会計上は知的無形資産といわれる)は、以下のような2つの固有の特質を有している。すなわち、一つは「当該資産がもたらす将来の経済的便益(価値)と当該資産の取得に要した過去の支出額(コスト)との時間的な乖離が大きい」ことであり、二つは「当該資産の取得時において、当該資産が将来において企業に価値を確実にもたらすか否かを識別することが困難である」ということである。
企業価値に占める有形資産と無形資産の割合は、1978年当時で80%対20%であったものが、1998年時点では30%対70%と逆転しているといわれている。知識創造時代における企業経営の視点から見たとき、企業価値を創造し、イノベーションをもたらす知的資本に戦略の軸足をシフトして行くことは、今日における企業経営の戦略的な経営課題といえる。
企業価値全体の中に知的財産の占める割合が高まりつつある今日の知識創造時代において、企業価値全体を客観的かつ定量的に評価しようとする社会的要請は多面的に顕在化するに至っている。
しかしながら、現代の会計の枠組みは知的財産等からなる知的資本に対する情報利用者の意思決定に必要とされる情報提供機能を十分に果たす迄には至っていない。
本論文では、ITに代表されるような知的無形資産に照準を当て、それらの有する価値を主として経済的な視点から分析評価し、企業を取り巻くステークホルダーにとっての有用な価値情報を算定するための基礎的な枠組みを提示することを意図するものである。とりわけ知的財産の中でも、特許に代表される産業財産権とともに、企業価値創造の中核的な役割を担うものと期待されるITを対象として、ITの投資効果の評価に関し、その価値評価方法に関する論究に加えて、企業価値創造のメカニズムという視点から、IT導入活用の実態を分析して、ITの進化が企業価値の喪失をもたらすという構造的なメカニズムが存在することを「IT価値喪失の定性的理論モデル」として提示している。同時に、企業がIT投資から新たな価値を創造するためには、どのような対応が必要とされるかをITガバナンス、ITポートフォリオ、企業文化、組織の環境適応の4つの視点からあるべき姿を考察している。

2.構成
本論文の全体構成は、序論、第T部(知的無形資産の価値評価)、第U部(ITの価値創造・価値喪失)、および結論からなる。
序論では、本研究の対象となった知的財産(知的資産ともいう)の今日的意義を企業の多面的な経済活動の側面から考察し、その経済価値を適正な会計情報としてステーク・ホルダーに開示されるべきであることを示し、隠れた無形価値としての知的財産をオンバランス化を含む適切な方法により、積極的にその資産価値を評価する必要性のあることについて問題提起する。また、知的無形資産のうち、企業価値との係りの深いITをとりあげて、その価値創造・価値喪失のメカニズムを中心に理論ならびにケース分析をとおして、IT先進企業のあるべき姿を明らかにすることの意義を述べている。
第T部では、知的無形資産の概念を明確にし、その価値評価を対象に論究した研究内容であり、第1章から第5章のほか、第T部の小括をもって構成される。
第1章では、知識創造時代を迎えて、会計分野におけるパラダイム転換の必要性について考察する。企業の経営活動は従来の物財の生産を中心としたものから、知的財産による価値創出を中心とした知的資本経営にシフトしていることを踏まえて、現行の会計制度におけるITの情報開示の現状および知的財産をめぐる会計基準の動向を概観する。
第2章では、知的資本に係るエドヴィンソン、スベイビー、サリバン等の諸説を概観し、概念を統合するとともに、知的資本を構成するIT資産を構成する項目の属性を明らかにする。
第3章では、知的無形資産の価値評価を論考する前提として、会計における資産概念の本質を理論的に究明し、有形資産と無形資産に関する会計上の取り扱いについて不確実性の視点からその異同を明らかにするとともに、知的無形資産の固有の属性としてのリスクや不確実性を考察する。
第4章では、企業を取り巻く内外の経営環境における不確実性に対し、経営の意思決定に柔軟性がある場合に、企業の価値がどのように認識されるべきかを、DCF法とリアル・オプション法との対比により明らかにし、経営意思決定においてリアル・オプション法の適用が有効であることを提示する。同時に伝統的な価値評価手法およびリアル・オプション法を概観し、知的無形資産の価値評価に対するリアル・オプション法の適用の可能性、ならびに、ITないしソフトウエア資産測定での有効性について考察する。
第5章では、IT価値評価の応用として、知的無形資産に属するIT(ソフトウエア)を中心とした価値評価法の発展を概観し、それぞれの長所・短所を指摘する。とくにIT(ソフトウエア)に関して、従来のコスト・アプローチに改良を加えた拡張コスト・アプローチを提唱する。またITの価値評価に関しては、リアル・オプション法にバランススコアカードを併用した評価手法の新たな枠組みを提示するとともに、リアル・オプション法の適用上の課題について考察を行う。価値評価に関する応用領域としてITを対象とした「知的財産権担保融資」および「流動化・証券化」に係る価値評価について、ソフトウエアを対象として考察を行う。
第6章は第T部の小括であり、知的無形資産の概念を体系的に整理し、知的無形資産の価値評価方法について、従来からの伝統的な評価方法の問題点を指摘し、不確実性と経営の柔軟性を伴う知的無形資産の価値評価方法として、リアル・オプション法が有効であるが、定性的要因を一層加味して判断する必要がある。
第U部では、知的財産の中核的な存在であるITを対象として、IT投資効果の評価のあり方に関し、ITが有する価値創造のメカニズム、並びに価値喪失のメカニズムの視点に立脚し、理論ならびにケーススタディの両面から論考した内容であり、第7章から第10章のほか、第11章としての第U部の小括をもって構成される。
第7章では、わが国におけるITの歴史的な発展過程およびITの導入目的の変遷の経緯を概観するとともに、ITの価値評価の前提となるIT投資効果の評価のあり方について考察し、検討すべき課題を提示する。
第8章は、本論文の核心部分を構成する。ITと企業価値をめぐる国内外の先行研究(肯定論・否定論)を価値創造・価値喪失のメカニズムという視点から概観した上で、@製品ポートフォリオ理論とITのライフサイクル理論の統合、A企業価値喪失の構造的要因論、ならびに、B組織進化論的アプローチの3つの理論を前提とした独自の「IT価値喪失の定性的理論モデル」を提示し、ITの進化が企業価値の喪失をもたらす必然性があることを明らかにする。
第9章では、「ITの投資効果とITガバナンスに関するアンケート調査」から回答が得られた企業の中から、代表的な4社を選定し、個別企業のケース・スタディとして分析評価する。
第10章では、今後、ITを成功させるために、IT投資を補完するものとしての「ITガバナンス」体制の確立が必要不可欠であること、またIT投資の効果を最大化する上で、「ITポートフォリオ」の考え方に立ったITマネジメントが重要であることなどを述べ、今後わが国の企業が解決していくべき新たな課題を提示する。さらに、企業価値創造には、企業組織としてのITケイパビリティ能力向上が必要不可欠であるところから、組織変革の必要性を提唱する。
第11章は第U部の小括であり、ITと企業価値との関連性について、価値創造ならびに価値喪失のメカニズムをとおして理論的に分析し、ITの進化に伴うITのコモディティ化、リスク増大・コスト増大、および、ITと組織の進化パラドックス等の理由から、ITが企業価値の喪失をもたらす必然性があることを「IT価値喪失の定性的理論モデル」から明らかにする。
第12章では、第T部および第U部における論述内容を本論文の結論として要約し、その意義を明らかにするとともに、今後に残された研究課題をまとめる。

3.総括
今日の知識創造時代においては、知的財産が企業の付加価値の最大の源泉となっていることから、先進国を中心として知的財産を企業の競争戦略の基軸とした国際的競争が益々熾烈の度を増しつつある。わが国において、21世紀におけるビジネス分野での知的財産を戦略的武器に据えた国際的競争力の強化を図ることが最重要な国家戦略に位置づけられている。また一方において、急進的なITの進展が、産業構造・社会構造の変革をもたらす大きなインパクトを与えるとの認識から、わが国においても、IT先進国家を標榜し、政府主導のもと、e−Japan重点計画として官民の総力を結集して、高度情報通信社会の実現に向けての取り組みが行われている。また、企業にあっては、知的財産およびITを車の両輪とした知的資本経営による付加価値の創造を最大の企業目的とした経営活動が遂行されている。
しかしながら、知的資本、知的資産といったような知的財産と類似した概念の出現やITも広義の知的財産の範疇に包摂されるべきとの考え方などから、改めて、知的財産に関連した諸概念の整理・統合化を図り、それらに対する認識の一元化を図ることの必要性が高まっている。
知的財産およびITを具体的な経営指標に基づく経営戦略における対象として取り扱うには、それらの実体を計数的な尺度で認識できることが極めて重要な要件となる。換言すれば、知的財産およびITの価値評価に客観性を持たせることが、ビジネスの取引対象とする上で、必要不可欠な条件とされる。しかし、知的財産およびITは、いずれも「物質的実体を有さない非貨幣性の資産」のため、現行の会計基準では認識の対象外に置かれている。このことから、企業価値の最大化をもたらすために、経営活動の一環として、知的財産およびITの活用を図るには、客観的、かつ合理的な基準により、それらの価値を認識し、測定できることが不可欠な条件となっている。
本論文の第T部では、広義の知的財産を対象として、価値評価を対象とした研究を行ったものである。
本論文では、知的財産およびそれに類似したもの、並びに、ITを含めて、知的無形資産という概念で総括している。知的無形資産の価値評価を論ずるための前提として、まず無形資産の本質を解明する必要があるが、無形を意味する「intangible」には、『不確実性』という意味を有しており、無形資産の本質はその「不確実性」に淵源が求められることを明らかにした。
知的無形資産の価値は、将来の期待される経済的便益の現在価値と考えられることから、その知的無形資産を創出するために要したコストと価値との間には相関がないという特質がある。したがって、価値評価方法としてのコスト・アプローチは、元来、知的無形資産の価値評価方法としては妥当性を欠くものとされているが、IT(ソフトウエア)の価値評価に対しては、価値の創造に直接結びつかない投入コストを価値評価の対象から排除するメカニズムを創案し、従来のコスト・アプローチに改良を加えた拡張コスト・アプローチを構築することによって、IT(ソフトウエア)分野へのコスト・アプローチ適用の可能性を拡張した。
知的無形資産の価値評価方法として、将来の期待される経済的便益の現在価値をもって価値を評価するという点で、インカム・アプローチが、より適切な評価方法であると考えられる。しかし、知的無形資産が企業に将来もたらす経済的便益の現在価値を算出するにあたって、伝統的なDCF法は、知的無形資産に不確実性が伴い、将来の経済的便益にリスクが高いことから、過小に価値評価される。これに対して、不確実性および経営の柔軟性の価値を評価対象とするリアル・オプション法は、伝統的なDCF法よりも高く価値評価されることから、不確実性を本質とする知的無形資産の価値評価方法として、妥当性を有するものであることを示した。
リアル・オプション法は、ITを始めとする知的無形資産の評価に適用され得るものである。ITの価値評価の対象は、定量的効果のほか、定性的効果の比率が高くなってきていることから、リアル・オプション法とバランス・スコアカード手法(BSC)を組み合わせることで、ITの投資効果(価値評価)の定量化が可能であることを論じた。
本論文の第U部では、ITを研究対象として、価値創造の視点から、そのメカニズムを中心に理論およびアンケート調査に基づくケース分析の両面から研究し、仮説として独自の「IT価値喪失の定性的理論モデル」の構築と、理論モデルを踏まえて、ケースの分析を行うとともに、「ITを成功させるための課題」を提示した。
これまで、ITは企業価値を高めるための有効な経営ツールとして暗黙裡に受け止められてきた経緯がある。しかし、半導体、通信技術、コンピュータ技術などのITを構成する基盤技術の急速な進歩に伴い、ITの進化が一層、急進的となってきており、IT利用者に対する利便性を高める一方において、IT自体がコモディティ化し、ひいてはITの戦略的価値の低下およびセキュティ面でのリスクの増大というマイナス面を生起させるという現象も顕在化しているという外部要因に加えて、ITを経営のツールとして活用するために必要不可欠とされる組織成熟度の向上(ケイパビリティ能力の獲得およびITガバナンスの確立等)の不完全性、並びに、IT資産の不良化といった種々の内部要因により阻害された企業組織自体の進化とITの進化との間に乖離が生じることとなり、ITが進化すればするほど、これら2つの進化間の乖離が拡大する結果、企業に価値喪失をもたらすという"進化パラドックス"現象がみられることを論じた。
「IT価値喪失の定性的理論モデル」は、既述の構造的要因(外部要因および内部要因)を前提として、既存の「製品ポートフォリオ理論」と「ITライフサイクル理論」との統合化を図り、さらに進化論的アプローチの視点から、ITの進化と組織の進化との乖離の拡大を通して、企業価値の喪失をもたらす構造的なメカニズムの存在を解明することを意図したものである。
ITの進化とともに、ITの投資目的は、初期段階における業務効率化を中心としたものから、段階的に経営品質向上、顧客満足度向上、および、競争優位性の獲得といった戦略的効果などを目指した定性的で、かつ、より高度な投資目的へと変容している。このため、進化したITを企業の価値創造のために使いこなすには、ITの進化に適応した組織に変革することが求められる。
最後にITから最大の価値を創造するために必要不可欠な組織変革の根底となる要件として、ITガバナンス、ITポートフォリオ、企業文化、および、組織の環境適応の4つの視点から、ITを成功させるための課題を提示した。
企業組織は、本来的に環境変化に対して抵抗する本質(ルーティンといわれる組織遺伝子)を有しており、環境変化にタイムリーに適応させるには、組織メンバー(経営者および従業員)の主体性に基づく計画的変革、創発的変革のほかに、進化的変革が必要不可欠とされることを論じた。

4.課題
ユビキタス社会の到来に対応して、今後においても、IT投資が持続的に拡大していくであろう状況を鑑みるとき、進化パラドックスの解消のために、内部要因である組織変革をどのように図っていくかが、今日の企業に課せられた最大の経営課題であると考える。
本論文において、研究の中核と位置づけた「IT価値喪失の定性的理論モデル」は、筆者による独自の仮説として、ITと企業価値に関する論議に、問題提起したものであり、今後においても、理論の一層の精緻化、および、実証研究をとおした理論の妥当性の検証を積み重ねて行いたいと考えている。

                                                                          以上